感想・解説『寂しい国の殺人:村上龍』日本を取りまく”寂しさ”と病理とは

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ガツガツしている頃の龍さんのエッセイという感じです

『寂しい国の殺人』

小説家である村上龍さんによるエッセイで、初出は文藝春秋にて1997年に掲載されたものとなっています。

シングルカット社より1998年に刊行され、2010年には新装版も出版されています。

1990年台後半のを取り巻いていた空気を読み解くような内容となっていて、文章と写真のようなイラストを合わせたものとなっている本です。

内容紹介

変化に適応するということは、具体的に何かを止め、何か新しいことをはじめるということだ…。「変化への不適応」をテーマに綴ったエッセイ。近代化の終焉を告げる、ヴィジュアルテキスト。 

https://www.hmv.co.jp/artist_村上龍000000000158388/item寂しい国の殺人-シングルカット・コレクション_3934751

村上龍さんによるヴィジュアルテキスト

『寂しい国の殺人』読みました。

村上龍さんの作品はほとんど読んでいると思っていたのですが、知らない本をAmazon で発見したので購入。



この本は、村上龍さんによる短い文章と、それに伴うイラストとが合わせてあるヴィジュアルテキストとなっています。

100ページ弱の短い本で、とても読みやすくなっています。

それでいて書かれていることは、結構日本という国の本質を捉えていて深い本でもあるなと思いました。

『寂しい』国

この本では『近代化』を終えた後の日本を取り巻いている空気や、問題点についての鋭い指摘がなされています。

そして、1997年に起きた『神戸連続児童殺傷事件』、いわゆる『酒鬼薔薇事件』についても言及がなされています。

近代化を終えた日本における『寂しさ』を一つのテーマとして挙げていて、その病理性について書かれています。



近代化とは都市化や工業化の進んだ社会のことを言います。

日本では戦後、近代化が急速に進んでいきます。

高度経済成長期を経て、世界的な経済大国となりました。



しかし、それと同時に『明日は今日より良くなる』という国家としての共通感覚のようなものが薄れていってしまいます。

人々は個々人としての目標や喜びを見つけるようにならなければならず、そこに生まれているのが『寂しさ』だというのです。

未来予知のような・・・

この本が書かれたのは1997年と今から23年前のこととなります。

当時は世紀の終わりかけということで、なんとも言えない空気が世界を取り巻いていたと言います。



それから23年たった今この本を読んでみて思ったのは、この本で書かれていることは今も全然継続中だということです。

というよりむしろ、個人化という点では当時よりも先鋭化されているとも思えます。



人々は共通意識としての目標を失い、自分がやりたいことはなんなのか?自分の好きなことはなんなのかを追求せざるを得なくなっています。

当時より発展したインターネットがそれを加速化しているようにも思えました。



ネットの世界では、あるところでは全く知らない誰かが、狂信的な存在感を持っていることが多々あります。

知っている人はすごく深く知っている誰かのことも、隣にいる誰かは全く知らなかったりもするのです。



人々は自分の信じたいものを信じ、それを疑うこともないのです。

村上龍さんの鋭い言葉

この本は村上龍さんの一番鋭かった頃の言葉が溢れている気がします。

龍さんは1990年代にたくさんの作品を発表しています。



その中の一つである『インザ・ミソスープ』も1990年代の作品です。

この作品が書かれている最中に神戸での事件が起こり、衝撃を受けたというようなことも書かれていたりもします。



村上龍さんは日本という国に危機感が足りないということを繰り返し言っています。

いろんなことに対して何処か他人事だったり、真剣に生きている人が少ないというのです。



そんな中で神戸での14歳の犯人が起こした事件のように、ある時に狂気的な事件が起こります。

それこそが日本の孕んでいる病理性なのです。



個人的には凄く好きな本でした。

こういう本を読むと、村上龍だな・・・とめっちゃ思いました。

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