
映画も良かったですが、小説も面白かったです。
『蜜蜂と遠雷』
日本の小説家恩田陸さんによる長編小説で、2009年から2016年まで7年にかけて連載されました。
浜松国際ピアノコンクールをモデルとしたコンクールを描いた長編小説。
幻冬社より単行本が刊行され、文庫版も2019年に出版されました。
第156回直木賞と、第14回本屋大賞をダブルで受賞しています。
実写映画化もされていて、2019年10月4日に公開されました。
あらすじ
第6回目の開催となる芳ヶ江国際ピアノコンクール。
有名なピアニストを輩出するコンクールとして世界各地から実力者が集まっていた。
かつて天才少女と呼ばれながらも、ある時からピアノと距離を置いていた栄伝亜夜。
アメリカのジュリアード大学院に在学し、有名なピアニストの弟子であるマサル・カルロス・レヴィ・アナトール。
サラリーマンとして楽器店に勤め、結婚し子供もいる28歳の高島明石。
そして、伝説的なピアニストであるホフマンからの推薦状を受けて参加してきた16歳の風間塵。
それぞれがそれぞれの思いを抱えコンクールに望んでいた。
天才的な音楽で審査員と聴衆を惹きつける亜夜とマサル。そして、奇抜ながらも人の感情に揺さぶりをかける演奏をする風間塵。
それに対し、『生活者の音楽』があるはずだと信じる高島明石。
第一次、第二次と予選は進んでいき・・・。
映画原作の
恩田陸さんの『蜜蜂と遠雷』。
存在は知っていたものの、なかなか読めずにいた小説でした。
直木賞と本屋大賞を受賞していて、とても人気のある作品です。
結論から言うと、本当に面白い小説でした・・・。
小説を読むことそのものの面白さを思い出させてくれるような小説でした。
映画も先日公開されていて、観てきました。
これがとても面白く、すぐさま小説を買いに行きました。
映画を見てから小説を読むという順番は、いい部分もあれば悪い部分もあります。
先に映画を見ていれば、話の大筋は分かっていますし、登場人物の姿もイメージしやすいです。
顔を浮かべながら読むことができるのはとても楽です。
しかし、それはある意味では想像力の入り込む余地を削いでしまうことにもなってしまいます。
映画を先に見ているので、亜夜は松岡茉優さんを、マサルは森崎ウィンさんを、明石は松坂桃李さんをどうしても思い浮かべてしまいます。
文章から自分の頭で想像する余地を削いでしまうのです。
(そんなことを思いながらも今回は映画を先に見ていて良かったなと思います。)
音楽を小説で描く
そもそも、この小説はとんでもないことを成し遂げている小説です。
それは、音声を使うことのできない小説という媒体において、ピアノコンクールを描いているからです。
小説のほとんどはピアノのシーンとなっています。
ピアノの演奏を文章でしっかりと表現し、ピアニストごとの個性も出し、実力の差も表現しなければなりません。
これって、本当に凄いことだと思います・・・。
そして、とても読みやすい小説でもありました。
本当に音楽を聞いているかのように流れていくような小説で、文庫版は上下巻となかなかのボリュームなのですが、あっという間に読んでしまいました。
高島明石の視点を通し
この小説は4人のピアニストをメインとして話が進んでいきます。
その中でも絶妙な役割を果たしているのが、高島明石という人物です。
彼はコンクールに出場するほどの実力はありながら、『普通の人』寄りの人物として描かれています。
そして、亜夜、マサル、風間塵の3人との間には超えることのできない才能の差があることにも自覚的な人物です。
(少しネタバレになりますが)彼は第二次予選で敗れてしまい、第三次予選と本選は観客として見ることとなるのです。
彼は前半はコンクールの『内側』にいるのですが、後半はコンクールの『外側』にいるのです。
彼は出場者の気持ちを代弁する役割も果たしながら、本当に凄い音楽を目にするその他大勢の聴衆の気持ちを代弁する役割も果たしているのだと思います。
彼の目を通した視点がところどころ挟まれることは、この作品にとてもいい効果を与えています。
天才たちの凄さをさらにきわ立てることにもなっています。
音楽を好きで良かった
そんな彼は、才能の差を実感しながらも最終的には『音楽を好きで良かった』という感情になっています。
これこそがこの作品の本質的な部分でもあるような気がしました。
音楽に限らず、芸術という世界において、確実に存在している『才能』というもの。
それは好きという感情や、努力の量には必ずしも比例しないものです。
しかし、だからこそ『才能』を持っているものは特別な存在であり、芸術の価値を高めることとなるのです。
この小説では才能を『持っている者』と『持っていない者』がいるという現実は描いていながらも、その両者を肯定しているように思えます。
たとえ、『持っていない者』であろうとも、音楽を好きであるという感情そのものに優劣をつけることはなく、肯定的に描いています。
『蜜蜂』と『遠雷』とは
作品のタイトルとなっている『蜜蜂』と『遠雷』。
これは何のことなのでしょうか。
本編に直接的な言及はありませんが、タイトルとなっている以上、必ず意味があるはずです。
作中に登場する風間塵は『蜜蜂王子』と呼ばれています。
養蜂家である父親の元で育った彼はそう呼ばれることとなるのです。
おそらく『蜜蜂』は日常的に鳴っている音や、身近に、もしくは内側に存在している『近い』音の象徴とされています。
世界はもともと音楽に溢れているという言葉が作中で何度か登場します。
対して『遠雷』は作中でも(おそらく)一度も登場することはありません。
個人的な解釈ですが、この『遠雷』は遠く離れたところで鳴っている音。そして、コントロールすることのできない音の象徴ではないでしょうか。
『遠雷』は地理的な距離や、時間的な隔たりとしての『遠さ』を象徴しているのではないかと思いました。
どこかで産まれた音楽が、遠いどこかで、もしくは時間を越えたどこかで演奏され、愛されてることがあります。
それこそが音楽の持っているとても強い力であり、この小説で伝えたいことでもあるように思えました。
蜜蜂の羽音のように身近なところで音楽は産まれていき、いい音楽はどんどん広がっていく。そして遠いどこかで遠雷を鳴らすようにコントロール不能なものとなっていく。
そんな意味ではないかと思いました。(あくまで個人の解釈です)
最後に
読んでみて、直木賞、本屋大賞を獲っているのも大納得のとても面白い小説でした。
恩田陸さんの小説はいくつか読んだことがあるのですが、この本は最高に面白かったです。
おそらく作者は、最初の方で少し言及があるように音楽と小説を重ね合わせて考えているような気がします
不確かで、不安定でありながらも、時間を越えていく力を持っている芸術という点においては共通している部分もあるのでしょう。
映画も良かったけど、小説も本当に良かったです・・・。