
大好きな内田樹さんの本です。
なんとなくは感じていながらも、うまく言葉にできないことを文章で分かりやすく示してくれる気がします。
『下流志向 学ばない子供たち 働かない若者たち』
元大学教授であり、思想家でもある内田樹さんによる著作です。
初版は2007年で、講談社文庫より文庫版も出版されています。
『なぜ日本の子供たちは勉強を、若者たちは仕事をしなくなったのか』ということをテーマとし、全4章からなっています。
第一・二章は「学びからの逃走」を、第三章は「労働からの逃走」を扱っていて、第四章は質疑応答が掲載されています。
学ばなくなった日本人
『下流志向 学ばない子供たち 働かない若者たち』は内田樹さんによる本です。
内田樹さんの本はとても好きで、ある時期から名前を見つけては必ず読むようになっている書き手の一人です。
この本を最初に読んだのは大学生の頃でした。
自分自身もまだ社会へ出る前の学生で、「なるほどな、なるほどな」と何度も思いながら読んでいました。
この本に限らず、内田樹さんは「なんとなくみんなが感じていること」を言語化することが本当にうまいです。
内田さんの本はいちいちしっくりくる本ばかりです。
偏差値と受験において
偏差値とは、同年齢の集団において自分がどの位置に属しているのかという数値です。
僕自身、高校、大学、もっと言えば中学時代から意識せざるを得ない馴染みのある数値です。
大学や高校の入試においては誰しもが無視することのできない指標の一つです。
この本で書かれている面白い指摘は、偏差値が相対的な指標である限りにおいて、絶対的な学力は重要ではないといいます。
つまり、競争相手の学力が低ければ低いほど、自分にかかる負担は減るというのです。
競争ということを優先的に考えた時、子供たちは「同年齢集団の学力がどんどん下がることを無意識的に願っている」のです。
これはまさに目から鱗の指摘でした。
確かに偏差値という指標を重視するのであれば、絶対的な学力は必ずしも重要ではありません。
極端な話、自分以外の全ての人が自分より愚かであれば、競争において頂点に立つことができるのです。
しかし、客観的に考え、長期的に考えるとそれがいかに愚かな考えかということが分かります。
競争を重視するあまり、みんなが他者が愚かであることを願っていては、集団全体の力が下がっていくばかりか、国力の低下にも繋がっていく話でもあると思います。
消費主体として社会参加をスタートする
そして、この本に書かれているさらに興味深い指摘は、子供たちは教育という過程において、かなり早い段階から市場原理を持ち込んでいるというのです。
子供たちは勉強という『苦役』がどのような恩恵をもたらしてくれるのかということを等価交換の原理で判断しており、その結果として学ばなくなっていると。
要するに、子供たちは消費者としての立場で教育という場に向き合っているのです。
これはとても鋭く、極めて本質的な指摘です。
教育に市場原理を持ち込んでしまうと、お金を払ってそれを受け取っている側に優位性が生まれてしまうのです。
それならば、なぜこのような姿勢を子供たちがとってしまうのでしょうか。
それは、消費主体として社会参加がスタートすることに起因していると本書では述べられています。
現代の子供はまず、お小遣いを受け取り、それを使うという形で社会参加をスタートします。
成熟におけるとても早い段階でお金による全能感を経験してしまうのです。
一昔前であれば、社会参加の形は労働主体としてだったといいます。
お手伝いなどの労働を通じて少しずつ社会というものに触れていくのが普通だったのです。
しかし、消費の主体として社会参加をスタートしてしまうと、あらゆることを市場原理で見るようになってしまうとのこと・・・。
危機感を持たないと・・・
個人的にはこの本を読んでとても危機感のようなものを感じました。
それは、この本で語られているような若者の考え方を自分も少なからず持っていて、そのような行動を取ってしまっているとも思ったからです。
この本に教育だけでなく、労働に関することもとても詳しく書かれています。
日本社会に警鐘を鳴らすようなとてもいい本です。
教育の主体である学生たちにほど是非読んで欲しいです。