
金曜ロードショーで放送されていました。
歳を重ねてから見るとまた違う印象でした・・・。
『千と千尋の神隠し』
2001年に公開されたスタジオジブリ制作による日本の長編アニメーション映画。
監督は宮崎駿さんで、日本における歴代興行収入1位となっている作品です。
声の出演として柊瑠美さん、入野自由さん、夏木マリさん、神木隆之介さんなどが参加しています。
音楽は久石譲さんで、木村弓さんによる『いつも何度でも』が主題歌となっています。
世界でも多くの国で公開され、第75回の米国アカデミー賞では、アカデミー長編アニメ映画賞を受賞しています。
あらすじ
10歳の少女である千尋は、両親とともに引越し先の新しい街へ向かっていた。
途中で森の中にある不思議なトンネルを見つけ、中へ入るとそこは古いテーマパークのような無人の街だった。
小腹の空いていた両親は、店に並べられていた料理を食べ始めるが、どこか気味の悪さを感じた千尋は両親から離れ、町の中を歩いていく。
少し歩いた先には橋があり、その先には大きな建物があった。
千尋はそこで一人の少年と出会う。
人間が来てはいけない。ハクと名乗るその少年は千尋を建物から遠ざけようとする。
そこは神々が客として訪れる湯屋であった。
両親のところへ戻った千尋だったが、神々の食べ物に手をつけてしまった両親は魔法で豚へと変えられてしまっていた。
混乱する千尋の元に再びハクが現れ、この世界で生きていくには働かなければならないことを聞く。
そして、千尋は湯婆婆の元へ向かうこととなり・・・。
大人になってから見ると
『千と千尋の神隠し』は2001年の映画です。
もう20年近く前の映画かと思うと驚きです・・・。
当時、小学生だった僕はカオナシが怖くて、確か映画館では観れませんでした。
DVDが発売されてからようやく観たような気がします。
今回、結構な時間が経過してから改めて観てみて、また違った印象を受けるとともに、なぜここまでの大ヒットとなったのか分かったような気がしました。
『千と千尋の神隠し』は千尋という少女がトンネルから不思議な世界に迷い込み、そこでの神秘的な体験を経て成長するという物語です。
神々が疲れを癒しに来るという湯屋で、仕事を探すところから始まり、様々な登場人物たちと出会いながら、両親を助け、元の世界へと戻ります。
話と、音楽と、映像と、どれもなぜか切なく、なぜか心に響いてくるような映画です。
そして、最後に流れる『いつも何度でも』も絶妙な曲です・・・。
名前を奪われるとは
湯屋を支配している魔法使いである湯婆婆は、働くこと許す代わりに千尋から名前を奪います。
千尋は『千』と名乗ることとされ、湯屋で働くこととなるのです。
映画のタイトルにもなっている『千と千尋』という名前。
これは映画の中でも大切な意味を持っているような気がします。
ハクという少年は千尋の名を知っています。
昔どこかで会ったことがあるというのです。
ハクは劇中では決して千尋のことを千とは呼びません。
名を奪われ、千となる前の名前を知っているのです。
そしてハクも湯婆婆に名前を奪われていて、最後には自分の名前を千尋によって思い出すというシーンがあります。
この『名前を奪われる』ということの意味。
人は、誰しも働くとなった時に、何かの一員として働くとなった時、名前を奪われるということとなります。
『個』としての個人ではなく、組織の一員として、ある種別の人格を持ち行動しなければなりません。
これは日本的な『就職』の場においてはとても強く感じられる部分です。
誰かに仕えて働くということは、ある意味、名前を奪われるということに他なりません。
しかし、千尋とハクはそうなる前にすでに出会っていて、だからこそお互いのことが特別な存在となっています。
それは名前を失う前だからこその関係なのかもしれません。
カオナシとは
そして、この映画において大きな存在感を持っているのがカオナシという存在です。
カオナシは実は物語の序盤から登場しています。
そして、随所で千尋と関わろうとするのですが、最終的に彼(?)どこから来た、何者なのかは明確には示されることはありません。
千尋の親切心で湯屋に入り込んだカオナシは、千尋のために何かをしてあげようとするのですが、次第にその思いは暴走し始め、湯屋全体を巻き込む騒動へと発展します。
そして、最後には千尋とともに銭婆のもとを訪れ、そこに残ることとなるのです。
彼はこの物語における悪役のように見えるかもしれません。
(小さい頃の僕が怖くて見れないほどに・・・)
確かに暴走してしまった彼の姿はとても醜く、気持ちの悪いものとなってしまいます。
しかし、彼は不器用で、本質的には弱い人物なのかもしれません。
彼は物や、金で人々の注目を集め、千尋のことを手に入れようとします。
しかし、千尋はそんなものに目もくれずハクの元へ向かおうとします。
カオナシの欲しかった千尋は決して物や金では手に入らないのです。
そのことに怒り狂うのですが、その後彼は千尋とともに銭婆の元へ向かいます。
そして、そこで自分を必要としてくれる場所を見つけるのです。
彼がその後どうなったのかは描かれておらず、誰にも分かりませんが、きっと彼はそこでその後も暮らすこととなったのでしょう。
カオナシのしていることは、行き過ぎている部分もあるかもしれませんが、誰しもが多かれ少なかれ持っている部分のようにも思えます。
お金や物を求める資本主義的な考え方。
お金も物も必要であることは間違いありません。
しかし、お金や物を求め、それを手にしたとしても『本当に手にすべきものはそんなんものではない』ということをこの映画は伝えたいのかもしれません。
幸福は物質的・経済的な豊かさでは決して測れない。
口で言うことは簡単かもしれませんが、物語の形にしてそのことを伝えるには簡単ではないと思います。
なぜ大ヒットしたか
この映画がなぜ大ヒットしたのか。
成長してからこの映画を見てみて、その理由がなんとなく分かったような気がしました。
10歳前後のことを思い出してみて・・・。
誰しも千尋のような不思議な体験をしたような記憶があるのではないでしょうか。
自分でもうまく説明できないし、なんでそうなったのかも分からない。
もしかしたら全てが夢だったのかもしれないようなそんな体験。
そして、気がつけば普通の生活へと戻っているような体験が僕にもあるような気がします。
新しい街へ引っ越す千尋は最初不安を抱えていました。
しかし、見終えてみると『新しい街でも大丈夫だ』と千尋は思っているだろう。
ということが映画を見ていれば分かります。
千尋は別のどこかへ行っても大丈夫であろう強さを手にしているように見えるからです。
もしかするとあの全てが、千尋が不安を乗り越えるための幻想だったのかもしれないという見方もできるかもしれません。
ファンタジー的な要素もあり、少女の成長譚でもあり、ラブストーリーでもあり、現代の拝金主義的な思想の限界を示すような部分もある。
そして、日本人であればどこか懐かしさを感じるだろうし、海外の人が見ても日本という国をする手がかりにもなる。
そう考えると、なんという隙のない映画なんでしょうか・・・。
宮崎駿監督恐るべしです・・・。