
書店で気になって読んでみました。
難しかった・・・
シャルル・ボードレール
1800年代のフランスの詩人・評論家
代表作は1857年に刊行された韻文詩集『悪の華』
韻文詩だけでなく散文詩においても文学的な可能性を見出し、執筆を続けていた。
そして、生前には日の目を見ることがなかったが、ボードレールの死後に出版されたのが『巴里の憂鬱』である。
詩という文学空間の可能性を最も早く示唆した詩人とも言われており、のちの詩人たちに多大な影響を与えた。
『巴里の憂鬱』
パリの群衆の中での孤独を自伝的に記した散文詩50編が収録されている。
1867年のボードレールの死後、1869年に出版された。
いくつかの日本語訳版も出版されている。
今回読んだのは、三好達治による役で新潮文庫より出版されているもの。
韻文詩と散文詩
詩には種類がある。
韻文詩と呼ばれるものと、散文詩と呼ばれるものだ。
言葉はなんとなく聞いたことはあったものの、いまいちはっきりと理解し、区別することができていなかった。
まず、韻文詩とはなんなのか。
これは短歌や俳句など、リズムや形式が整っている詩のことをいう。
俳句の5・7・5や短歌の5・7・5・7・7のように一定のリズムで形成されている詩のことが韻文詩だ。
それに対し、散文詩とは何か。
散文とは、簡単にいうと『普通の文章』のことだ。
ごく普通に私たちが使っている文章。一般的な小説などで使われている文章のことを散文詩という。
要するに俳句や短歌などの形式の整っていない文章全てを散文詩という。
分量は多くないけれど・・・
ボードレールは詩の可能性を追求した詩人だ。
散文で書く詩に、詩という世界の文学的な広がりを示唆した。
『巴里の憂鬱』はボードレールによって書かれた散文詩集だ。
全50編の短い詩が収録されている。
それぞれの詩は長くても5〜6ページほどで、短いものは1ページで終わる。
全体でも200ページほどの決して分量は多くない本だ。
しかし・・・この本は本当に難しかったです。
文字を追い、最後までページをめくったものの、どこまで『読んだ』と言えるのか、理解していると言えるのかははっきりとは分からない。
おそらくそのほとんどを理解できていないような気すらしている。
しかし、だからと言って何も響くものがなかったかというとそんなことはない。
ちょっとした一文にハッとさせられるようなところは確実にあった。
『どこへでも此世の外へ』
というタイトルの詩がある。
詩はこんな一文から始まる。
『この人生は一の病院であり、そこでは各々の病人が、ただ絶えず寝台を代えたいと願っている。ある者はせめて暖炉の前へ行きたいと思い、ある者は窓の傍へ行けば病気が治ると信じている。』
そして、私は自分の魂と会話をする。
一体どこへ行けば自分は幸福になれるのだろうかと。
しかし、私の魂は質問に答えることはせずに黙ったままだ。
私が質問を重ねると、最後に私の魂は言う。
『どこでもいい。どこでもいい。ただ、この世界の外であるならば!』
この詩は現代にも通じている詩だと思った。
今自分のいるところになんとも言えない不満感や不安感を抱えている。
そして、それは『ここではないどこか』へ行けば解決し、幸福が訪れるのだろうと。
しかし、決してそんなことはない。
別のどこかへ行ったとしても、また別のどこかを求めてしまう。
きっと誰しもが感じたことのある感情だ。
そして、150年近く前のパリにいた作者も同じことを考えていたのだ。
『ここではないどこか』を誰もが探し求めているが、それでは本質的には何も変わらない。
それよりも今自分のいるところを愛することの方が大切なのだと。そんなことを思わせてくれる。
このような詩が全部で50編収録されている。
200ページほどの薄い本ですが、内容はなかなかに濃いです。
そして、本当に難しいですが、何かしら感じることもあると思います。