
ロバート・ルイス・ステイーブンソンの『ジキルとハイド』
言葉は聞いたことあったけど、話自体は知らなかったので今回読んでみました。
『ジキルとハイド』
1885年にイギリスの作家ロバート・ルイス・スティーブンソンによって書かれた。
1886年に出版
原題は『The Strange Case of Dr.Jekyll and Mr.Hyde』
通称『ジキルとハイド』
世界中で訳されており、日本語版の訳書も多数。
また、映画、ドラマ、ゲーム、舞台、ミュージカルなど様々な媒体において展開されている作品。
今回読んだのは、新潮文庫より出版されている田口俊樹訳のもの。
あらすじ
弁護士のアタスンと親戚のエンフィールドは、日課となっていた日曜日の散歩に出かけていた。
とある裏通りに差し掛かった時、エンフィールドが2階建ての一軒家の戸口を指差し、ある出来事について話し始めた。
見るものを不快にさせるような小さな男が、ある少女にぶつかった。
男は少女に謝るばかりか、平然と少女を踏みつけ立ち去ろうとした。
少女の家族がその男に詰め寄り、『ハイド』と名乗るその男は少女の家族に100ポンドを支払うこととなった。
そして、その受け渡し場所となったのが目の前にある2階建ての建物なのだと。
その家はアタスンの顧客であり、友人でもあるジキル博士の屋敷だった。
そして、アタスンはジキル博士から不可解な遺言状を受け取っていた。
それは『ヘンリー・ジキル死亡の際は、その財産の全てを友人であるエドワード・ハイドへ相続する』というものだった。
ジキル博士の屋敷に出入りしている謎の小男ハイド。
そんなある日、ハイドがステッキで老紳士を殺害するという事件が起こる。
聞いたことはあったけど
『ジキルとハイド』という言葉は今までに何度も聞いたことがあった。
それがどこで、どのような形だったかは思い出すことはできない。
しかし、この言葉はどこかで確実に僕の耳に入っていて、それは決して一度や二度ではない。
今回、初めて原作となる小説を読んだ。
文庫で150ページほどの短い小説だ。
小説を読んでみて、なぜこの話が現代に至るまで読まれていて、たくさんの媒体で再構築されているのかが少しだけ分かったような気がした。
これはジキルという男が、自分の別人格としての存在『ハイド』を作る話だ。
ジキルは博士として自分が高貴でいなければならないことは理解しながらも、自分の中には黒い欲望があることを自覚していた。
そして、その欲望を何らかの形で表出しなければならないことも。
研究を重ねたジキルは、外見を変える薬品を作り出す。
そして、別人格『ハイド』として黒い欲望を出していくこととなる。
ハイドが何をしようとも、ジキルの姿に戻ればハイドは存在しなくなるのだ。
しかし、次第にジキルはハイドの方へと引きずり込まれていく。
目を覚ますとハイドの姿になっているようなことが起き始める。
最終的にジキルは自殺する。ハイドの姿のまま。
普遍性を持つ物語
この話はたくさんのことを含んでいる小説だ。
ジキルは自分の中の悪の部分を担う役割としてハイドを生み出す。
しかし、次第にコントロールできなくなっていってしまう。
善と悪という宗教的な、道徳的なテーマを扱っている小説だ。
さらにミステリーであると同時に、ジキルが変身する様子はファンタジーでもある。
そして、当時のロンドンの様子を垣間見ることのできる小説でもある。
そう考えると何と深い話なのだろう。
『許されざることを犯す欲望』は現代においても誰しもが多かれ少なかれ持っている欲望だ。
ほとんど全ての人はそれを理性で抑えて生活している。
ジキルは、もっと言えば作者のロバート・ルイス・ステイーブンソンはその欲望を何とかして処理する方法を考えたのだ。
しかし、それは失敗に終わる。取り返しのつかないこととなり、最後は命を落とす。
100年以上も前の人がこんなことを考えていたと思うと、すごいなと思う。
『ジキルとハイド』は現代にも通ずる普遍的な話だ。
今回は小説として読んだけど、舞台や映画なども機会があれば見てみたい。