感想『ビューティフル・ボーイ』人を救うことは難しい。それでも・・・

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映画『ビューティフル・ボーイ』

とても考えさせられました。


映画『ビューティフル・ボーイ』とは?

2018年公開のアメリカの伝記映画

監督はフェリックス・ヴァン・フルーニンゲン

主演はスティーヴ・カレルとティモシー・シャラメ


どんなストーリー?

父親のデヴィットと息子のニック。

ある日デヴィットは、息子のニックが薬物中毒になっているのだということを知る。

大学入学を控え、自慢の息子だと思っていたニック。

分かり合っていると思っていた息子。

息子は知らないところで全く知らない一面を持っていた。

デヴィットはなんとかしようとニックを更生施設に入れる。

一度は更生したかのように思え、普通の大学生になたかのように思えたニックだったが・・・


救うためにどうすれば良い?

見ていて、楽しい映画ではない。

しかし、『必要な』映画だ。そう思った。

世界に確実に存在している一面を切り取り、世界の現実を伝えてくれる。

息子のニックは読書や絵を描くことを好む繊細で内気な少年だ。

6つの大学に合格し、父親からも愛情を注がれている。

しかし、ニックはどこか現実につまらなさを感じていた。

そして、手を出してはいけなかったものに手を出してしまうこととなる。

『白黒だった世界が色づいたように思えた』

そんな表現が作中でされる。

ニックは今までになかった刺激を知り、自分で自分をコントロールできなくなっていく。


父親のデヴィットは息子の現状を知り、なんとかして救おうとする。

息子に自分のできる事はなんでもやろうとする。

しかし、なかなか根本的に解決する事はできない。

映画を見ている僕らは父親と同じようにこう考えるようになっていく。

『どうすればこの息子を救うことができるのだろうか』と。


息子が薬物に手を出した動機の部分は、作中では明確にはされない。

家族の関係性なども明確には示されない。

分かる事は、父親のデヴィットには離婚歴があること。

ニックは前の女性との間の子供である事。

デヴィットは今は別の女性と家庭を築いているという事。

ニックのことはしっかりと愛していて、時に過剰とも思える愛情を注いできたのだということ。

どこかに歪さをはらんでいるのだということは分かるが、どれも息子が薬物に手をだす直接的な理由とはなっていない。


終盤、父親のデヴィットは今の妻にこう言われる。

『救うことはできない』と。

観客は父親とともにハッとさせられる。

救うことはできないのかもしれないと・・・。


不安定な青年期

ニックの様子を怖いと思いながらも、その不安定さを僕らは理解することができるのではないだろうか。

少年期から青年になり、次第に大人になっていくという移行期間。

自分を見失いかけ、どうすることもできない不安感がある。

ニックは自分のしてしまったことに強い罪悪感を感じている。

しかし、それでもどうすることもできなくなってしまっている。

何かに依存することは怖いことでが、誰しもが何かに依存している。

良いものであれ、悪いものであれ、人は何かに依存している。

それを失うことは怖い。

失うことによって再び不安定さが訪れるからだ。

周りに迷惑をかけていることが分かっていても、自分が自分で無くなっていっていることが分かっていても、どうすることもできないのだろう。


生きている人の喪に服す

映画の終盤に薬物中毒で娘を亡くした女性が話をするシーンがある。

その中にこんなセリフがある。

「思えば、娘は数年前から死んでいたも同然でした。そこに娘の姿はありませんでした。生きている人の喪に服すのは辛いことです。今は少しホッとしています。』

その話をデヴィットは聞いている。

そして、自分の息子も既に死んでいるのかもしれないと考えさせられる。

家族からも見捨てられ、諦められたかのように思えたが、最後はそれでも親子だった・・・


ティモシー・シャラメは凄い・・・

それにしてもティモシー・シャラメという俳優はすごいなと改めて思った。

『レディ・バード』や、『君の名前で僕を呼んで』などにも出ていたが、繊細で内気で、どこか不安定な美少年をこんなにもうまく表現できるとは・・・

本当に凄い・・・



映画の最後には救いが与えられているものの、なかなかの後味の悪さでした。

決して娯楽を与えてくれる映画ではないかもしれません。

でも、世の中にはこういう映画も必要だと思いました。


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