感想・解説『ゴドーを待ちながら:サミュエル・ベケット』空白の中心、生み出されるたくさんの解釈

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サミュエル・ベケット『ゴドーを待ちながら』です。
戯曲としても有名なこの作品。

『ゴドーを待ちながら』

アイルランドの作家サミュエル・ベケットによって書かれた戯曲で1952年に刊行されました。

翌年の1953年にパリで初演が行われ、現代におけるまで世界各地で公演され続けている作品となっています。



ベケットは他にも『モロイ』『マロウンは死ぬ』『名づけえぬもの』の小説三部作などを発表していて、1969年にはノーベル文学賞を受賞しています。

日本では安堂信也さんによる翻訳で、1956年に白水社より刊行。

日本国内での演劇の公演も幾度となくなされています。

内容紹介

田舎道。一本の木。夕暮れ。エストラゴンとヴラジーミルという二人組のホームレスが、救済者・ゴドーを待ちながら、ひまつぶしに興じている──。

不条理演劇の代名詞にして最高傑作、待望のペーパーバック化!

https://www.hakusuisha.co.jp/book/b205629.html

story

舞台は田舎の一本道。

二人の浮浪者が他愛もない話に興じている。



名前はエストラゴンとウラジーミル。

二人は”ゴドー”という人物を待ち続けている。



しかし、ゴドーはなかなか現れない。

そこにポッツォという男とラッキーという名の召使いが現れる。

エストラゴンとウラジーミルはこの二人とやりとりをする。



最後には伝言を授かった少年が現れる。



少年はこう言う。

『ゴドーさんは今晩は来られない。明日は必ず来ると言っていた。』



1幕は終わり、2幕目が始まる。

エストラゴンとウラジーミルはまた他愛もない話に興じている。

ゴドーはまだ現れない。



そこへ再びポッツォとラッキーが現れるが・・・

よく分からないけれど・・・

『ゴドーを待ちながら』読みました。

白水社より刊行されているもので、文量自体はとても少なく読みやすいものとなっています。



しかし、読み終えた後おそらく多くの人はこう思うのではないでしょうか。

一体何を読んだんだ・・・?という。



話は結構シンプルな話です。

二人の男がゴドーという人物を待っています。



しかしゴドーは一向に現れません。

代わりに現れたのはちょっと変わった人物たちで、最後にはゴドーは今日はこないと言います。



最後の最後までゴドーは登場しないまま話は終わります。

ゴドーとは?たくさんの解釈がなされる理由

話に出てくる『ゴドー』という人物。

彼は一体なんなのでしょうか。



おそらく、明確な答えを持っている人はいません。

作者のベケット以外は誰も正しい答えは分からないと思います。



一説には神(GOD)をもじったものだという話もあったりもしますが、それも解釈の一つに過ぎず、作中でゴドーが何者かについては言及されることはないのです。



さらに言ってしまえば、この作品は『隙』であふれています。

そして、その隙はおそらく意図的なものです。



二人の浮浪者はなぜゴドーという男を待っているのか。

二人との関係性はどういうものなのか。

ポッツォとラッキーとは何者なのか。

ゴドーは来ないと伝えに来る少年は何者なのか。

ゴドーとは何者なのか。



そのほとんどに明確な答えは用意されていません。

読み手が想像力を働かし、解釈を与えるしかないのです。



しかし、この作品が語り継がれている理由はそこにあるのかもしれないなとも思います。

はっきりとした解釈のできる作品であれば、多様性の入り込む隙間はありません。



一つの物語に一つの解釈。答えは一つしかありません。

しかし『ゴドーを待ちながら』はどうでしょうか。



読み手は否応なく思考を促されます。

話の内容を再考し、解釈を考えざるをえないのです。



結果、そこにはたくさんの考えが許され得る豊かな場を作り出すこととなっているのです。

不親切さが

小説は不親切な物語の形式です。

場面や、登場人物の顔。物語の解釈に至るまで最終的には読者の想像力に委ねられているからです。(そうでないものもあります)



それは映画やテレビにはない能動的な営みであるとも言えます。

そして、そこにこそ小説を読むという行為の喜びもあるとも思います。

活字のみで与えられた情報だけを手掛かりに、自分自身で物語を構築することができるのです。



『ゴドーを待ちながら』は極めて『開かれて』いる作品です。

この作品から何を受け取ることができるかは、受け取り次第であり、一人一人完全に同じではないでしょう。



そして、その不完全さこそが多様性の入りこむ隙間となっているのです。

不在の中心を描く

こういう作品は文化や言語、時間を超える力を持っていることが多い気がします。

全てがそうというわけではないのですが、そういう作品があることも間違いありません。



『ゴドーを待ちながら』は不在の中心を描いている話でもあります。

似たような作品は現代の日本の小説にもある気がします。

例えば『桐島、部活やめるってよ』なんかはゴドーに結構似ている部分がある作品でもあると思います。(表層的には全然違います)



いずれにしろ、この作品が面白いものであることは間違いありません。

興味ある人は読んでみましょう。

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